ファイナンスの哲学ー堀内勉 より抜粋
中世封建社会の農民は、封建領主が保有する荘園に居住し耕作に従事していた。職業選択や移動の自由はなく、また領主に対して重い賦役や生産物地代、結婚税、死亡税、教会税などを負担し、領主裁判権に服する農奴身分に置かれていた。やがて13世紀頃から生産力の向上を背景に、貨幣経済が荘園の中にも浸透し、14世紀には貨幣地代が一般化した。その過程で、荘園制は徐々に崩壊し、農奴は貨幣地代のみを納めるようになり、その他の賦役や税金を免れるようになっていった。そして、多くの農奴が一定の金額を支払うことで解放され、自由な身分を獲得し、農村で独立自営農民となった。その後、最終的に、イギリスやフランスでは17~18世紀の市民革命を経て、農奴の解放が実現したのである。このように、貨幣経済が浸透する前は、多くの人々が土地に縛られ、移動の自由も持たなかった。仮に自由な身分になれたとしても、おカネというその土地を離れても通用する価値を持たずして、地縁・血縁を離れては生きていかなかった。貨幣の存在は、人間に経済の実態構造から超越する「自由」を与えることによって、その交換活動の範囲を大きく拡大することになった。おカネは人間を自由にするという積極的意味もあることを忘れてはならない。一方、おカネによって共同体的な束縛も失われる。おカネが人間関係を希薄にすることもある。人々は、貨幣に生の確かさをみいだすどころか、金融の奴隷のごとき存在に落ちてゆく。自由を求める人間の活動の帰結は、この新たな隷属の道を歩まざるをえないのである。ここに資本主義のパラドックスとでもいうべきものがある。賃金によって労働はモノと同一化され、労働が有する支払い不能な尊厳を、価値のうちに覆い隠してしまい、人間の労働とサービスは、モノと同じように商業的価値をもつものとみなされてしまう。そして人間はその能力を貨幣によって評価され、経済的システムへと統合され、経済的発展のさまざまな段階において値段をつけられる存在になってしまうとしている。人間の価値が貨幣的な価値として測られるようになることで、人間疎外が起こる。