• 本を読んで再考する

梅棹 忠夫 著 より引用

情報産業は工業の発達を前提としてうまれてきた。印刷術、電波技術の発展なしでは、それは、原始的情報売買業以上にはでなかったはずである。しかし、その起源については工業におうところがおおきいとしても、情報産業は工業ではない。それは、工業の時代につづく、なんらかのあたらしい時代を象徴するものなのである。その時代を、わたくしたちは、そのまま情報産業の時代とよんでおこう。あるいは、工業の時代が物質およびエネルギーの産業化がすすんだ時代であるのに対して、情報産業の時代には、精神の産業化が進行するであろうという予察のもとに、これを精神産業の時代とよぶことにしてもよい。ところで、物質およびエネルギーの産業化がすすんだ工業の時代は、いうまでもなく産業革命によってもたらされたものである。それ以前の時代にあってはどうであったか。それ以前の時代は、もちろん農業の時代である。農業とは、要するに食糧の生産である。それは、食物の産業化の進行した時代であった。こういうふうに整理してみると、人類の産業の展開史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。現在は、第二段階の工業の時代にあって、いまなお世界の工業化は進行中であるが、すでに一部には第三段階の精神産業の時代のきざしがみえつつある、そういう時代なのである。

私が手にしている上記の本は、1988年に初版が発行されている。現在はその予察通り、情報の時代、データの時代と言われている。一方、 梅棹 忠夫 が「精神産業の時代」と、表現したのはいかなる意図に基づいてなのだろうか。現代のデータ社会を生きる私たちは、「情報の時代」「データの時代」と表現することはあっても、「精神産業の時代」という表現はほとんど使わない。ひょっとすると「精神産業の時代」という表現に、我々の時代をもう少しアップデートできる何かしらのヒントがあるような気がしている。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です