• 本を読んで再考する

エリッヒ・フロム著 からの引用

われわれの分析の結論は、自由は不可避的に循環して、必ずや新しい依存に導くということになるのだろうか。すべて第一次的な絆から自由であることは、個人を非常に孤独な孤立したものとするから、かれは不可避的に新しい束縛に逃避しなければならなくなるものだろうか。独立と自由は孤独と恐怖と同じことであろうか。あるいは、個人が独立した自我として存在しながら、しかも孤独ではなく、世界や他人や自然と結びあっているような、積極的な自由の状態があるのだろうか。われわれは一つの積極的な解答の存在すること、自由の成長する過程は悪循環とはならないこと、人間は自由でありながら孤独ではなく、批判的でありながら懐疑にみたされず、独立していながら人類の全体を構成する部分として存在できることを信じている。このような自由は、自我を実現し、自分自身であることによって獲得できる。自我の実現とはなんであるか。観念的な哲学者は、自我の実現は知的洞察だけでなしとげられると信じていた。かれらは、人間のパーソナリティを分割することを主張し、人間の本性が、理性によって、抑えられ導かれるようにしようとした。しかしこの分割の結果、人間の感情生活ばかりでなく知的な能力もかたわになった。理性はその囚人である人間性を監視する看守となることによって、自分自身が囚人となった。そして人間のパーソナリティの両面、すなわち理性と感情はともにかたわとなった。われわれは自我の実現はたんに思考の行為によってばかりでなく、人間のパーソナリティ全体の実現、かれの感情的知的な諸能力の積極的な表現によってなしとげられると信ずる。かれらの能力はだれにでもそなわっている。それらは表現されてはじめて現実となる。いいかえれば、積極的な自由は全的統一的なパーソナリティの自発的な行為のうちに存する。

上記文章にふれて。私はJazzが好きなのだが、ソロの作品よりも、トリオの作品を好むことが多い。誰かと一緒に一つの作品を作成する場合、単独での作成と比較し、自由の幅は制限されるのだろうか。例えば、ソロでは出来ないことを、トリオで実現することは十分あり得ることのような気がする。この場合、自由の尺度からすると、音楽の中での自由の幅が拡がるケースもあるように感じる。そういった演奏の際、トリオの中で、感情的知的な諸能力のシンクロは起きているのだろうか。


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