「開かれた社会」以後 カール・ポパーより引用
開かれた社会の中においてだけ、つまり多くの観点と多くの意見に寛容であり、敬意を払う社会においてだけ、われわれは、自分たちの誤りから学習し、真理へと近づく希望をもつことができる。それ故、西欧社会が、科学が本当に繁栄している唯一の知られた社会であることは、偶然ではないのである。そして、科学は栄えてきただけではない。科学が最初に経済的な生活の基礎をなすようになったのは、ここ西欧の社会なのである。開かれた社会においてだけ、科学は束縛されることがない。開かれた社会との競争を強いられている閉じた社会が、経済的停滞(あるいは、軍備拡大競争における失敗)を避けるために必要とされる程度の自由を、科学者たちに認めることは明らかにありそうなことだ。しかし、閉じた社会は、その国家への奉仕に対して科学を激賞しうるだろうが、いつも、科学に疑いを抱いているだろう。というのも、科学は、いかなるドグマにも権威にも敬意を払ったりしないからである。そして、科学は結局のところ、あらゆる閉じた社会の基礎を作る全体主義者や権威主義者のドグマに敬意を払えないのである。
以前に、数学者・科学者から、数学・科学における、精神の自由性の大切さを教わったことがある。ポパーは同時に、他人の信念に対する敬意という考えよりも「高貴な」考えはほとんどないと考えている。そして、一致を強化するよりも、不同意に対する敬意に、高い価値を置くことによって、市民に平和を確立する開かれた社会という考え、そして、一致を強要することによるよりも、むしろ不同意に対する敬意に高い価値を置くことによって、市民の間に平和を確立する開かれた社会という考えよりも「高貴な」考えをほとんど考えられないとしている。
ただ、現実に各個人が実践するのには様々な問題もあることは事実である。我々は真の市民としての科学者と成りえるのか。