• 本を読んで再考する

岡潔・小林秀雄 より引用

小林:

岡さんは、絵がお好きのようですね。ピカソという人は、仏教のほうでいう無明を描く達人であるということをお書きになっていましたね。私も、だいぶ前ですが、同じようなことを考えたことがある。どこかの展覧会にきまして、小さなピカソの絵をみました。それは男と女がテーブルをはさんで話をしている。ピカソの絵ですから、男か女かわからない。変なごつごつしたもので、とてもそうは見ないけれども、男と女が話しているなと直感的に思った。そうすると、いかにもいやな会話を二人がしているんですな。これは現代の男女がじつに不愉快な会話をしているところをかいたのだなと、ぼくは勝手に思っちゃった。

岡:

それは正しい直観だと思います。

小林:

岡さんが無明ということを書いていらっしゃったでしょう。ははあ、これは同じ感じだなと思った。

岡:

男女関係を沢山かいております。それも男女関係の醜い面だけしかかいていません。あれが無明というものです。人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。昔、世界の四賢人といって、ソクラテスとキリストと釈迦と孔子をあげておりますが、そのうち、三人、釈迦とキリストと孔子は、小我は困ると言っているのじゃないかと思います。


書籍の冒頭、岡は大文字の山焼きのような人為的なものに興味がないと言う。数学は発明ではなく、発見であるという人もいる。その道にたどり着いたものは、元々そこに存ったものを観るのかもしれない。続けて岡は、次のように語る。「人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。ところで、人には個性というものがある。芸術はとくにそれをやかましくいっている。漱石も芥川も言っております。そういう固有の色というものがある。その個性は自己中心に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるということを知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。」

芸術の世界において、人為的でないもの、作為性を感じさせないもの、というのは、人が考えているよりもずっと少ない気がする。パフォーマンスの先、パフォーマンスの先と切り詰めたとき、自己は一つの媒介となる。そういった作品が減ってきているような気がするし、そういった人と現行のシステムが相容れないと感じることがある。それは私が思考を始めた一つのきっかけでもある。ただ岡の考えが万人を幸せとするものなのか、私は疑問に思う日もある。


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