• 本を読んで再考する

隈研吾著より引用

□サステナブルな資本蓄積をどう考えるか

蓑原:

高度成長時代の基本的論理は、ご存じのとおり開発の論理で、その前提には自分たちの資産があまりに貧しいという事実があった。二、三十年でまず巨大なフローを起こそうと、既存のストックを徹底的に壊していった。ところが、そうして築かれたものも社会資産として流通しない、次の世代に渡せないものだった。世代が代わっても相変わらずゼネコン頼りで壊しつづけて資産は少しも蓄積されず、街並みも貧しいままです。ヨーロッパがアメリカに対してあれほど豊かなのは、数世代を経た蓄積を重んじているからです。

隈:

この問題に関しては、日本の特殊事情があります。木造建築が火事や地震のために二、三十年単位で更新されつづけた日本では、建物が「もつ」「残る」というと、コンクリートで固めたハコモノを想起させて、拒否反応が出てしまう。僕が木を使ってサステナブル建築をつくっている一つの理由です。あるいは、自分が建てるものが長く残ればいいと考えるエゴイストとしか見られない。サステナビリティがエゴイズムと混同される。

蓑原:

建築とサステナビリティのかかわりは、近代主義の一つの根本的なテーマです。丹下さんは、たとえば東京都庁がそうですが、自分の建物を平気で壊して新しくつくった。近代主義者は常にタブラ・ラサから出発する。そこに実際にかかわる人間が、それからの何百年どう生活していくのかはそもそも頭に入れていない。それとは逆に、一九六二年にアメリカでルイス・カーンに話を聞いたときのことはよく覚えています。ちょうど彼はダッカの国会議事堂の設計に取り組んでいて、模型を見た私が「バングラデシュというもっとも貧しい国にこんな壮大なものをつくるんですか」と聞いたら、「何を言っているんだ。おれは一千年先のことを考えているんだ」と怒られました。

隈:

カーンの建物には、二十世紀のアメリカ人の時間に対する無感覚・無教養への批判が込められている。彼はまさに一千年もつ姿を意識して、古代遺跡のように壮大な建築をつくって、建築の流れを変えてしまった。ディズニーランドのフィクショナルでペラペラな時間の中で、平然と暮らしている人への批判です。

蓑原:

時代、時代を超えて、無茶をやったような建物こそ、我々がいま建築資産、文化資産としてエンジョイしている。そういう意味では、刹那的に消費される新奇なデザインに流されることなく、当代の文化の先端において、変化と普遍の要素をどう組み合わせて考えるのかが大事です。日本でこれから資産の蓄積を考えていくアプローチは二つあると思います。まずは、リサイクルの視点です。隈さんが「自然な建築」で言われたように、基本的にコンクリートはもろく、早晩産廃になることを、いまの時点で考えないといけない。これは、家屋のこまめな部分補修を繰り返し、木材や紙のリサイクルを営々と行ってきた日本の文化的なDNAが見直される契機です。もう一つ、記憶の継承という問題は、近代化に一生懸命焦っている段階では先延ばしにできても、成熟段階では避けられない。変化の速度やベクトルがある程度落ち着いたところにしか、成熟した文化は発生しません。日本をはじめ、アジアの国々はそこに一斉に突入する段階に立ち至っている。アメリカの精神も似たような状況です。

隈:

ヨーロッパの建築コンペでは、どんなに斬新に見える案でも、「時間の継承」という側面がないと、絶対に勝てません。そのくらい「時間」が社会にとって、大事なテーマだというコンセンサスがある。日本での都市論は反ハコモノと環境をテーマにしていますが、スクラップアンドビルドが繰り返される現状の問題性を指摘する人がとても少ない。いまだに火事と地震で更新しつづける都市像を引きずっている。

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真善美の内、善美は時代の規定性に従うという考え方もある。文化的累積性というものを我々に気づかせるものは何なのか。


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