• 本を読んで再考する

聞く人:富永朋信 答える人:ダン・アリエリー

ダン・アリエリー :

経済学の標準的な理論には「意味」のようなものが存在しないのです。経済学の標準理論では、瞬間的な幸福を最大化することが目的となります。しかし、瞬間的幸福についてさえ、我々は何が自分を幸せにするかを判断するのが得意ではないと思います。なぜなら、もし人間が完璧に合理的であれば、どんなものが自分を幸せにするか分かっているはずだからです。例えば、人はものをたくさん買いすぎる一方、経験には十分にお金を払わないことが分かっています。他人に十分与えないこと、友人と十分な時間を過ごさないことは分かっている。瞬間的な幸福を最大化しないような、あらゆることを人間は行うのです。一方で、「他者と関係を築くことによる幸せ、困難なことを達成する幸せ」は、完全に不合理ですが、良い意味で不合理です。私たちは時折、合理的=良いことと同一視しますが、合理性が常に良いとは限らない。愛は不合理ですが、愛のない世界をつくりたいとは思いません。詩も芸術もすべて、ある意味では不合理です。人間の寛大さは不合理です。

富永朋信 :

「意味」の意味について研究されましたか。つまり、意味には特別の意味があって、意味はとても人間的に思えます。自制する、頑張る、辛抱する、落ち着きを感じるといったものです。私の言いたいことは、我々が人間として、なぜこのような意味や物語を組み立てるのか。何かそれを説明するアイデアがありますか。これは、すごく大きな疑問だと思うのです。

ダン ・アリエリー :

私の憶測ですが、私たちは本質的に社会的な動物です。人間とほかの動物の違いについて考えてみたら、その違いとは、私たちの社会的な性質なんです。私たちは他人という社会的存在を取り上げ、経済学で言うところの自分の「効用関数」に組み込むんです。そして、これが進化論的にとても重要になる。

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ダン ・アリエリー は上記の後、次のように語る。私たちは他人を思いやるという非常に基本的な能力を持って生まれ、社会はこの能力を高められるし、逆に低くすることもできる。共感を抱くというこの能力について言えることは、私たちは必ずしも、すべての人に共感を抱かないといことです。人間として、私たちは自分の共同体を思いやることができると思います。しかし、悲しいかな、人類全体を思いやることはできない。自分の共同体と、そうでない共同体との境界線は、時々はっきりしています。また、私たちの愛情と効用はただ大きくならないだけでなく、憎悪になり、不効用になることもある。悲しいことに、私たちには、一部の人を取り出し、自分の共同体から切り離し、人間らしくない存在と見なす傾向があるんです。そして人を分断して人間性が低い存在として扱うと、私たちは相手を思いやる能力を失っていく。

我々自身が規定してしまう境界線というものはなぜ生まれるのだろう。


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